キッズ・オールライト/リサ・チョロデンコ

同性愛においてはリベラルだが家族においては保守派、ということ?

とてもバランスのいい良くできた映画です。ストーリーもよし、キャスティングもよし、そして何よりも、言葉で語る部分とそうでない部分のバランスが絶妙です。


映画『キッズ・オールライト』予告編

となれば、人間と言いますか、私の場合、わがままなもので、出来過ぎなところが気になってしまうという…(笑)。以下、完全ネタバレです。

なんだか全てが爽やかです。カリフォルニアの空、そこそこ裕福そうな郊外の住まい、レズビアンカップルの堂々とした生き方、15才と18才の子どもたちの素直さ、家族それぞれの自立心、どれをとっても眩しいくらいに完璧で「家族」のお手本のようです。

で、それでも何か足りないのでしょうか? 父性? アイデンティティ? 子どもたちは、生物学的父親に会おうとし、そして実際に会います。父親は、これまた爽やかで、カリフォルニア・キュイジーヌと思しきレストランで成功している自由人です。話はそれますが、あのレストラン「WYSIWYG」、行ってみたくなります。店の名前は、オーガニックなところからのネーミングなのか、あるいは映画の何かしらを暗示しているのか、ちょっと気になる店でした。

というわけで、探し出した生物学的父親もほぼ完璧、本当に足りないものが何もない世界の中で物事は進んでいきます。

当然、展開としては、生物学的父親は家族に新鮮な空気をもたらしますが、家族間のバランスはくずれ、ちょっとした危機がおとずれることになります。自由気ままに生きてきた生物学的父親は、家族が欲しくなったと、つきあっている女性をふり、レズビアンカップルのひとりに一緒に暮らそう、子供とも一緒に暮らそうと言います。

何とも都合のいい話で、別れ話を切り出された女性が「f-word」と吐き捨てるように言いますが、当然でしょう(と、私が思うわけではないが)。レズビアンカップルのもうひとりが言います。「家族が欲しければ自分で作りなさい!」まあ、これも当然でしょう(と、私が思うわけではないが)。

で、結局、完璧すぎて、この映画はいったい何?

実は、このブログ、ほめようと書き始めたのに、こんな風になってしまいました(笑)。さらに、書きながら気づいたんですが、この映画、この家族と生物学的父親以外にはほとんど重要な役回りの人物が出てきません。つまり、この家族と社会との接点にはあまり興味が注がれていないということです。

二人の子供にはそれぞれ親しい友人がいるのですが、15才の男の子の友人はいわゆる悪ガキで、反社会的なものに惹かれるというよくあるパターンですが、ある時、二人は捨て犬をみつけ、友人が小便をかけようぜ(って、意味がよく分からないですが)言い、それをきっかけに殴り合って絶交みたいになります。これってどう?

さらに、18才の女の子の方もほぼ同様のパターンで、友人はやたら大人ぶり、男女間の性的関係の話ばかりをし、男友達との間を煽ったりします。つまり、二人の子供は、共に社会の悪の部分(一般的意味で)に引っ張られながらも、それぞれの意志で断ち切るように描かれています。何とまあ健全なことでしょう。

というわけで、よくよく考えてみれば、この家族は極めて保守的な家族関係として描かれており、一見、レズビアンカップルに二人の子供という特異な家族構成であるがゆえに新しい家族関係のようにみえますが、それにしても、ニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)の関係は、明らかに保守的な男女の家族関係の役割を踏襲しており、それは食事の場面に典型的に現れています。やや遅れて食卓につくニックは、堂々たる風格で、まさしく父性を体現しながら現れ、いわゆる家父長席とも言うべき椅子に座るのです。

途中、この家族がニックの収入によって維持されていることも語られ、ジュールスが社会的キャリアを求めながらもそれができないのは、ニックがそれを望まず、ジュールスに主婦であるよう求め続けてきたからだとも語られます。

と、考えてくると、この映画、ニックを男性と入れ替えてみれば、幸せに暮らしている中流家庭に、ある日、何かの理由で闖入者が迷い込み、家族の平和に一瞬危機がおとずれるが、それを乗り越えてさらに家族の絆は強まった、といったかなりベタは話なのではないかという気がしてきます。