そんなには褒めないよ。映画評

ミニシアター系映画レビュー*沈黙する言葉

映画タイトルの50音順メニュー作りました!

おすすめ映画直近の4作品

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ナチュラル・ウーマン

監督:セバスティアン・レリオ

(ネタバレ)ロッカーの中にあったもの、それはマリーナがマリーナであるためのもの

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花咲くころ

監督:ナナ・エクフティミシュヴィリ、ジモン・グロス

(ほぼネタバレ)1992年トビリシ、14歳エカとナティアの二人は確かにその時そこで生きていたという映画

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ソニータ

監督:ロクサレ・ガエム・マガミ

(ネタバレ)ドキュメンタリーとしての問題提起も含めオススメです

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汚れたダイヤモンド

監督:アルチュール・アラリ

(完全ネタバレ)ラスト10分のピエールの描き方が見事

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最新記事

ノルウェイの森/村上春樹その後3

年代順に読もうと思い、それなら次は「羊をめぐる冒険」なのだが、あいにく貸し出し中であり(あった)、先に「ノルウェイの森」を読んだ。

率直に言って、内容にどうこう言うほど感じるところはなかったのだが、いくつか気になることがある。

まず、第一章は、一体どうなってしまったのだろう? この小説を読まれた方でさえ、何のことだか分からないだろうから、簡単に説明すると、この小説の冒頭、第一章は、37歳の「僕」がハンブルク空港に降り立ち、飛行機のBGMで「ノルウェイの森」を聞いたがゆえに、20年前の回想に入っていくシーンから始まる。そして、第二章以降は、全てその回想に費やされる。最後の最後まで、37歳の「僕」は一度も登場しない。

これって、プロの作家でもアリ? 意図的? 何だか、子供が次の遊びに夢中になり、最初のおもちゃに見向きもしなくなってしまったような、そんな印象なのだが…。

それに、そもそも、その第一章の書き出しにしても、「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。」とあるのだが、じゃあ、書いている今の「僕」は、いくつで、どこにいるの?

これって、私の勘違い? なら、誰か教えて欲しい。

さらに、

私が借りたのは、「村上春樹全作品」の内の1巻で、「自作を語る・100パーセント・リアリズムへの挑戦」という綴じ込み付録のようなものがついていた。読んでいる途中から、そのタイトルがずっと気になっていたのだが、我慢して、読み終わるまでとっておいた。

「リアリズムへの挑戦」って、まさかこの作品のことじゃないよなと、読んでびっくり、村上春樹は「ノルウェイの森」を書くにあたって、
一、徹底したリアリズムの文体で書くこと
二、セックスと死について徹底的に言及すること
三、「反気恥ずかしさ」を正面に押し出すこと
の3つをやろうとしたらしい。

いくらなんでも、この小説、リアリズムじゃないでしょうと、突っ込みたいところだが、よく読むと「リアリズムの文体」とあり、そのことも説明している。

村上春樹によると、小説の文体と筋は、乗り物と乗客のようなものであり、「ノルウェイの森」では、リアリズムという乗り物になるよう気をつかい、

僕の考えるリアリズムというのは、まず簡易でスピードがあること。文章は筋の流れを阻害せず、読者にそれほど多くの物理的・心理的要求をしないこと。感情というものをなるべく自立させず、あまり関係のないものにうまく付託すること。

ということらしい。

そもそも、小説を文体と筋とに分類すること自体が分からないし、リアリズムの文体って何? 上の引用を読むと、平易な文章で読みやすく、としかとれないんだけど、それってどうなの?

二の「セックスと死」についても、徹底的に言及しているとは全く思えない。どちらも極めて表面的な描写だし、「僕」にとってのセックスは、女と「寝る」ことだし、「僕」にとっての死は、周りの人間が、「僕」の記憶に残るために都合よく「死」んでいくことでしかない。

随分言い回しがきつくなってきた。ここらでやめておこう。

で、結局、強く感じたことは、1973年のピンボール/村上春樹その後2 - 沈黙する言葉(旧)にも書いたが、この作品でも、登場する人物が皆、「僕」の鏡でしかなく、直子やレイコさんにしても、別人格とは感じられず、「僕」=村上春樹の独白を読んでいるような小説であった。

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